公務員の志望動機(志望理由)の書き方と例文


公務員を希望する人の志望動機(志望理由)の根底には、安定した職場であること、給与その他の待遇が比較的恵まれていること、などの点が必ずや基本的な選択条件としてあるはずです。その点は、民間企業を志望する人でも同様であり、大企業志向がいまだに根強く、経営状態の良い、給与・賞与の実績の高いところを希望するのが普通です。しかし、このような安定した職場、恵まれた待遇条件といった個人的な欲求に関することは、面接の際に質疑応答の流れの中で話せることはあり得ても、”志望動機”や”志望理由”として文字に出来るものではありません。それ以外のことで、公務員になりたいと心から願った個人的な理由を見つけ出し、正直に書かなければなりません。
公務員は昔から「公僕」(公に奉仕する人間)と称されてきたように、国民・市民に公共サービスを提供する仕事であり、その意味で社会的な貢献度が民間企業よりも勝っていると言え、それを誇りとすることが出来ます。その面を自分の個人的な夢や体験と結びつけて説明することが出来れば、担当職員の方々の好感を得ることができるでしょう。

市役所職員の志望動機例文

 私は□□市で生まれ育ちました。子供のころは太平洋を見ながら港の堤防で遊び、小学校から高校まで、ずっと市内の学校に通学しました。故郷である□□市への愛着の深さでは誰にも負けないと思っています。
 これまで4年間、大学に通うために、□□を離れて東京で独り暮らしをしてきましたが、その間、私立病院が閉鎖されるというニュースを聞いたことは、私にとって大変な驚きと衝撃でした。私も何度もお世話になった病院であり、市民にとっては掛け替えのない医療機関です。そのような市立の病院でさえ閉鎖されることがあるということを初めて知り、市の行政が市民の暮らしと切っても切れない密接な関係にあるということを、改めて痛感させられました。
 現在、市立病院は再開されましたが、常勤の医師はたった一人しかいません。私立の病院がありますから、けっして”無医村”のようになった訳ではありませんが、救急車が出動したときなど、何10kmも離れた別の町の病院まで患者を搬送しなければならないと聞いています。この□□で公立病院がひとつも満足に機能していないという現状を何とかしたいと痛切に思っています。
 □□市は基幹産業の漁業が廃れたわけではありませんし、観光資源も豊富にあります。それらをさらに活性化させることが出来れば、市経済も豊かになり、私立病院の再建をはじめとして市民への行政サービス全体を再構築することが可能になると思います。私は、その事業にぜひ一職員として参加し、かつてのような活きのいい□□の町の再生に尽力したいと思い、応募させていただきました。

都道府県庁職員の志望動機例文(1)

行政職志望の場合

県の行政職はあらゆる年齢、あらゆる職業の県民に公共サービスを提供する職種ですから、責任がとても重く遣り甲斐があるだけでなく、さまざまな人々に奉仕できるという点に魅力を感じます。また、本県は大都会を中心としながら、田園地帯も山も海も、すべての地理的環境が揃っています。長く勤めれば勤めるほど、広いフィールドで多彩な経験を積み、多くの人々と交わることが出来ると思います。それが自分の人間的な成長の糧となり、人生を豊かなものにしてくれると期待して、生まれ故郷ではなく本県への就職を決心しました。未知のフィールドで活躍するためには新しい資格・免許の取得も必要になると思いますが、県の制度としてその取得を支援していただけると伺っていますので、制度を利用して自己啓発と能力開発に努めながら、日々の業務に励んでまいります。

都道府県庁職員の志望動機例文(2)

技術職志望の場合

 私は防災のための公共事業に携わる仕事をしたいと思い、本県の技術職職員を志望しました。
 防災における公共事業の重要性を知ったのは、東日本大震災の報道がきっかけです。地震直後に東北地方の太平洋岸は軒並み津波に襲われ、防潮堤で守られていた地域でもその高さを上回る大津波によって甚大な被害を受けました。そのような被災地情報の中で、岩手県の三陸海岸にある普代村が防潮堤によって津波の被害をほとんど受けなかったという報道は大変印象的でした。
 三陸海岸は津波被害を繰り返し受けてきた地域ですから、港湾都市や沿岸集落には防潮堤が建設されていましたが、その高さはせいぜい10メートル程度だったようです。しかし、普代村の防潮堤は高さ15.5メートルという例外的に高いものでした。その高い防潮堤によって、住民の命と生活が守られたのです。
 この事実だけでも公共事業の重要性を知ることができますが、私が最も感銘を受けたのは、15.5メートルという規格外の高さで建設された経緯です。建設計画の当初から15.5メートルは高過ぎると各方面から批判を受けながら、当時の村長は過去の三陸大津波の教訓から15メートル級の建設計画を主張して譲らなかったそうです。行政の仕事は公平性を尊重するあまり、地域の特殊事情にそぐわない画一的な施策に陥りやすいと思います。しかし、建設を担当した県は、結局、普代村の主張を入れて現在の防潮堤を建設しました。正論が認められ、その結果として多くの人命が救われたことに、私は大いに感銘を受けました。
 このことが新聞などで報道されたとき、高校生だった私はまだ進路が定まっていませんでしたが、防災のための公共事業に携わることをめざし、土木工学科への進学を決心しました。現在、巨大な南海地震の発生を想定した本県の防災事業におきましては、限られた予算の中で効果的な防災計画を立案・実施することと、そのための研究機関との連携や国との折衝、企業・住民の協力を得ることなどが急務であると思われます。私は、その事業の最前線に立って県民の安全と生活を守るために汗をかいて働きたいと思い、生まれ故郷である本県の技術職を志望しました。